出口不明
本日は半蔵門のTOKYO FMをはじき出されまして、
虎ノ門にございますスタジオでの収録となりましてございます。
出口を想定しない、とか、型にはまらない、とか、
結果を恐れずやるだけやってみる、とか、まあそういうのはわりと称賛されたりします。
無鉄砲な感じ。
僕もそういうのが好きな部類だと、やはり周囲からは思われがちなんでございますけれども、
本人としては、あんまりそんな風には思ってなくてですね。
「まあ、あとは流れで」
とか
「こっからはフリーな感じで」
とか
「場面でアドリブでやっていきましょう」
みたいなのって、どっちかというと嫌いな部類です。
ガッチガチに考えて考えて考えて流れも全部考えて何しゃべるかとか次何するとか、
全部徹底的に煮詰めきって、これ以外に正解なんかありえない、ってとこまで、
パッケージでイメージします。僕の中ではオープニングからエンディングまで、
誰がどこでどんなふうに動いてどんな風にしゃべってどんな音楽が流れるのか、
全部決まってるわけです。
そこまで仕込みきった上で現場に行って、
「こんなもん全部使いまっせ――――ん」って自分でポイ捨てする瞬間の
あのションベンちびりそうなほどのカタルシスが、本当に快感です。
ああ、今この瞬間の俺には何にもない。カケラも残ってない。
それでも今から、何かを作んなきゃいけない。さあどうする、という。
あの、羊たちの沈黙でクラリスがラスト追い込まれる真っ暗闇のごとき不安感が好きです。
ドSでありドMでもある、というのは、そういう理由なんだと思います。
だから、何にも考えないで現場来て、
「アドリブでやったほうが楽しいんじゃね?」とか言ってる人よりも、
作品のクオリティではなくて、追い込まれ方が違うんですよね多分。
現場での瞬発力っていうかジャンプ力っていうのは、そういう養い方でしか成長しないと思う。
自分の中身を全部吐き出した先に、
脊髄が反射して無意識の中に生まれる自分の衝動は、一体どこにあるのか。
それは、事前に倒れ込むほどの準備をしてる人にしか、分からない。
僕は自分の発想力やひらめきを全く信じていません。
ひらめきは、記憶のアレンジでしかない。黒澤明監督が、そうおっしゃったように。
なるようになる、では、なるようにならない。
なるようになるようにするための準備こそが、奇跡への道を指し示すんだと思ってます。
そんなことで。出口を見失った今週のラジオ風とロックでございましたー(笑)
お楽しみにー。TOKYO FMのみなさんとは、2週間ぶりにお会いいたします。
(山本佳宏)