未完成
未完成であり続けることだけが完成であると、いつかの僕は言いました。
ここで言ったのかしら。忘れました。
語り捨て、書き捨ての毎日です。
人は、すぐに知ったような顔をして知ったような口をきいてしまいます。
「そうなんだよねー、まあ人間ってさーすぐ知ったかとかしちゃうんだよね…」
とか脳内で動き出した方がいたら、まさに今それです。
分かってる風な雰囲気を出すことに、どんな意味があるのでしょうか。
他人より優位に立ちたいんでしょうか。
ひとかどの人間であると認められたいんでしょうか。
バカにされたくないんでしょうか。
それとも、本当に、『分かった』のか。
その瞬間その瞬間に『知る』こともあるし、『分かる』こともあります。
しかし、それはあっという間に過去のことになり、古びて錆びて、時には"間違い"にすらなります。
箭内さんは覚えてないと思いますけど、僕の脳には鮮やかにプリントされてます。
数年前、箭内さんが何の気なしに僕に言ったコトバ。
「不変は悪だからね!」
これさえも過去の記憶だし、そのコトバをリアルタイムに走っている自分が疑うことも
可能かもしれません。
あの頃の箭内さんと今の箭内さんは違う。
あの頃の僕と今の僕は違う。
でも僕は両目と両耳に稲妻が走りました。
あの稲妻を脳内に走らせたまま、僕は今日も生きてます。
まさか30を前にして稲妻が走るとも思ってなかったので。
あのコトバが、仮に今"間違い"であったとしても、僕は箭内さんに感謝しています。
未完成であるからこそ、人と人はつながることができる。つながろうという意志を持つ。
そう思ってます。
僕自身、未完成というよりも完成してる部分なんかどこにもない人でなしですが、
ようやく、自分の未完成と他人の未完成を見つめることができるようになりました。
許容する、というのとは違います。
未完成は全てを許容された瞬間、ちんまりとした完成品に変身します。
どこまで未完成を追求できるのか。
どこまで心をむき出しにしてさらけ出して手を伸ばすことができるのか。
時として人は、自分を守る防具として、知識や常識や技術を身に付けます。
人に心を伝える手段ではなく。
この社会集団で下層に追いやられないための、防具として。
その防具は、広告のどんなことに役立つんだろう。
そんなことを考えながら観た、NICO Touches the Walls ワンマンLIVE @ LIQUIDROOM ebisu。
(山本佳宏)